瀬田の唐橋──歴史の節目に現れる「天下の要衝」
琵琶湖の南端、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」。現在はコンクリート製の堅牢な橋ながら、欄干には木製の装飾が施され、風情ある姿を保っています。京阪電車の瀬田駅から徒歩5分ほどの場所にあり、日常の生活道として使われながらも、古代から続く歴史の面影を色濃く残すスポットです。
日本三名橋のひとつ
瀬田の唐橋は、山崎橋(京都)・長柄橋(大阪)と並び、「日本三名橋」に数えられます。「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたように、東海道・中山道・北陸道の結節点にあたり、古くから交通と軍事の要衝でした。

『日本書紀』と『源氏物語』に登場
『日本書紀』には、持統天皇時代の記述の中で「勢多の橋(せたのはし)」が言及されており、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)がこの地を制したことが勝利につながったとされています。
一方『源氏物語』では、宇治十帖の中で登場人物が瀬田を通り、京から東国へ向かう旅路の中で「唐橋を渡る描写」があります。旅の途中に広がる水辺の景色や橋のたたずまいが、都との別れや心の機微を象徴する場面として使われています。
歴史の舞台にたびたび登場
壬申の乱(672年)──天下分け目の決戦の舞台
瀬田の唐橋が最初に歴史の表舞台に現れたのは、古代の内乱「壬申の乱」のときです。
大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)との皇位継承をめぐる争いの中、大海人皇子の軍勢は東国から西へ進軍。その行く手には、都・近江大津宮に通じる要所である瀬田の唐橋が立ちはだかります。
橋を落とされれば進軍できない。そこで大海人皇子の軍は知略をめぐらし、敵より一歩早く瀬田の唐橋を確保。これにより戦局は一気に有利となり、大海人皇子は勝利を収めて即位します。
瀬田の唐橋は、「勝利をもたらした戦略的な橋」として、早くもその名を歴史に刻むこととなりました。
源義経の渡河──南都焼き討ちの後に
平安時代末期には、あの源義経もこの橋を渡ったと伝えられています。
源平合戦のさなか、義経は一度は後白河法皇の命で南都(奈良)へ向かい、焼き討ちされた東大寺の復興に関与。しかしその後、再び軍を進めて京へと向かう道中、義経は瀬田の唐橋を通って進軍したとされています。
瀬田川を越えるにはここしかない、という重要な地点だったことがわかります。
室町・戦国時代──幾度も争奪された軍事拠点
室町時代から戦国時代にかけて、瀬田の唐橋はその戦略的重要性ゆえに、たびたび争奪の対象となります。
足利尊氏が楠木正成らと戦った「湊川の戦い」の直前にも、尊氏軍は瀬田の橋を押さえて南進。のちには織田信長と六角氏の戦いでも、唐橋周辺が戦の舞台となりました。
橋を制する者が近江を制し、近江を制する者が天下を制す──。まさに瀬田の唐橋は、その中心にあったのです。
織田信長の上洛(1568年)
織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際にも、唐橋は通過点となりました。当時の京都攻略の鍵として、瀬田の唐橋が再び歴史の表舞台に登場します。
今なお人々をつなぐ橋

現在の橋は、何度も修復と架け替えを繰り返したもの。現在の姿は1950年(昭和25年)に完成したコンクリート橋で、伝統的な朱塗りのデザインを残しながら、耐久性と安全性を備えた構造となっています。
歩行者専用の歩道も設けられており、瀬田川の静かな流れと比叡山を背景に、今でも風情ある景色が楽しめます。とくに夕暮れどきの唐橋は格別で、「夕照(せきしょう)の唐橋」とも称される美しさです。

アクセス

【 瀬田の唐橋 】
- 京阪電車「唐橋前駅」から徒歩約5分
- JR琵琶湖線「石山駅」から徒歩15分
- 車の場合:名神高速「瀬田西IC」または「瀬田東IC」から約15分
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