戦国一“優しすぎた”武将?滋賀が誇る 浅井長政 の人間らしさに触れる

歴史

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今回は、滋賀が誇る戦国武将、** 浅井長政 (あざい ながまさ)**についてご紹介します。歴史の教科書で「織田信長を裏切った大名」として名前を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。でも、滋賀に住んでいると、ちょっと違う見方もしたくなるんです。

◆ 浅井長政ってどんな人?

浅井長政 は、1545年(天文14年)に浅井久政の嫡男として生まれました。父の代には勢いを失っていた浅井家を、若くして家督を継ぎ、見事に再興させた実力派の武将です。

そして、政略結婚ではありますが、織田信長の妹・お市の方と結婚。ふたりは仲睦まじかったといわれ、三人の娘(茶々・初・江)も授かりました。長政は信長の妹婿として、当初は良好な関係を築いていたのです。

ただ、温厚で義理堅く、愛情深い性格の長政の中には常に「家のために何が正しいのか」という強い思いがあったようです。
信長が長年の同盟相手・朝倉義景を攻めると知ったとき、長政は「このまま信長に従うべきか、それとも道義を守るべきか」という大きな選択を迫られました。

迷いに迷った末に選んだのは、「義」を重んじて朝倉に味方する道。
これが結果的には“信長を裏切った”という評価につながってしまったのです。

その後、織田軍に攻め込まれ、居城・小谷城に追い詰められた長政は、妻や娘たちを助けるために城から逃がし、自らは城に残って自害します。
享年29歳――。まさに、命をかけて信念を貫いた武将だったのです。


◆ 滋賀県民から見た「長政像」

実際、長浜市では、「裏切り者」というより義を貫いた武将というイメージが強いです。

織田信長が同盟相手だった朝倉家を攻めたとき、長政は「義」を選び、信長に反旗を翻します。結果的には滅ぼされましたが、浅井家を守るための決断だった…という見方が、地元では根強いです。


◆ 小谷城跡に行ってみると…

現在、小谷城跡は山道を1時間ほど登ったところにあります(軽装だと厳しいのでご注意を)。頂上には石垣の一部が残っていて、そこからの景色は本当に絶景!


「ここで最後を迎えたのか…」と想像するだけで胸がギュッと締めつけられるような気持ちになります。


◆ 「裏切り者」という言葉の裏にあるもの

ネット上では「裏切った武将」という表現が多いけれど、地元に根差した目線で見ると、自分と家族、そして信念を守るために戦った武将だったことがわかります。

滋賀県の戦国史って、信長や秀吉の話に埋もれがちだけど、浅井長政のように“人間としての魅力”が深い武将が多いんです。

まとめ

浅井長政 はただの「裏切り者」じゃない。信念を貫いた、心優しき一国の主だったのかもしれません。

もし滋賀を訪れることがあれば、小谷城跡に足を運んでみてください。静かな山の上で、歴史の鼓動を感じることができますよ。


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