【滋賀・賤ヶ岳】戦国ロマン 賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の戦い 七本槍 観光

戦国ロマンと地酒の地──滋賀・賤ヶ岳と七本槍

七本槍古戦場賤ヶ岳

滋賀の歴史を語るうえで外せない場所、それが「賤ヶ岳(しずがたけ)」です。ここは1583年、豊臣秀吉と柴田勝家が天下を賭けて戦った「賤ヶ岳の戦い」の舞台。

この戦いで目覚ましい活躍を見せた若き武将たちは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれ、その後の戦国史でも重要な存在となりました。

七本槍とは?

七本槍は、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍の中でも特に奮戦した若き7人の武将のこと。激戦の最中、敵将の討ち取りや突破戦での先陣など目覚ましい働きを見せ、秀吉から「槍働きの功」によって名指しで賞されました。

当時、彼らは20代前半の若武者ばかり。身命を賭して戦ったその姿勢は、秀吉の信頼を大いに高め、のちの出世街道への扉を開くことになります。

  • 福島正則:前線で敵将柴田勝豊を追い詰める活躍。後に広島藩主、五大老の一人に。
  • 加藤清正:戦功により熊本城主に。朝鮮出兵でも大名の中で随一の実力者に。
  • 加藤嘉明:水軍の指揮官としても秀吉を支える。伊予松山藩、のち会津藩主に。
  • 脇坂安治:水軍戦での功績を評価され、篠山城主に。関ヶ原では東軍へ転身。
  • 片桐且元:秀吉の信任厚く、晩年は秀頼の後見役に。大坂の陣前夜の和平交渉にも尽力。
  • 糟屋武則:敵将の討ち取りで功を挙げるが、後年は没落。武功のみで名を残す。
  • 平野長泰:戦場での安定した働きと忠義で知られ、晩年まで秀吉家に仕えた。

七本槍 その後の人生年表

福島正則(ふくしま まさのり)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 1600年:関ヶ原の戦いで東軍に参加、広島藩主に
  • 1619年:幕府から改易され高井野に配流
  • 1624年:死去(享年63)

加藤清正(かとう きよまさ)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 1592年:朝鮮出兵で大活躍、「鬼の清正」と称される
  • 1600年:関ヶ原では西軍だが戦後も所領安堵
  • 1611年:秀頼の後見として家康と対面
  • 1611年:同年死去(享年50)

加藤嘉明(かとう よしあき)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 関ヶ原では東軍として伊予松山藩20万石に加増
  • 1627年:会津藩40万石に転封
  • 1631年:死去(享年70)

脇坂安治(わきさか やすはる)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 関ヶ原では西軍→戦途中で東軍に寝返り、所領安堵
  • その後も大名として存続
  • 1626年:死去(享年68)

片桐且元(かたぎり かつもと)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 豊臣秀頼の後見役に
  • 1614年:大坂の陣前夜に家康との交渉役として奮闘
  • 1615年:大坂の陣後に失意のうちに隠居
  • 1615年:同年死去(享年63)

糟屋武則(かすや たけのり)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 関ヶ原では西軍→敗戦後に所領没収
  • 以後、浪人として生涯を送る
  • 没年不明(消息不明)

平野長泰(ひらの ながやす)

  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで武功
  • 関ヶ原では東軍に従い所領安堵
  • 晩年まで徳川政権下で存命
  • 1628年:死去(享年72)

賤ヶ岳の今

現在の賤ヶ岳は、長浜市にある人気の歴史・観光スポットです。山頂へは登山道のほか、リフトでも登ることができ、琵琶湖と余呉湖を一望する絶景が広がります。山頂には七本槍の石碑や資料もあり、歴史ロマンを感じられる場所として多くの人が訪れています。

賤ヶ岳の上にある石像
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七本槍の名を受け継ぐ酒──冨田酒造の「七本槍」

七本槍の名は、現在の長浜市木之本町にある「冨田酒造有限会社」が製造する日本酒にも受け継がれています。地元の契約農家とともに育てた米と、霊峰・伊吹山系の水を使った、滋賀らしい一本。食中酒としても愛され、全国的にファンの多い銘柄です。

冨田酒造有限会社

  • 所在地:〒529-0425 滋賀県長浜市木之本町木之本1107
  • 創業:1534年(天文3年)
  • 代表銘柄:「七本槍」
  • 公式サイトはこちら
おいしい日本酒

戦国時代に思いを馳せながら、地元の酒を一献──そんな楽しみ方も滋賀旅の醍醐味です。

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